体験集 その1

酒害体験 止めごろ酒私の断酒

私は現在満58才仙台生まれの仙台育ちです。高校卒業後20歳の頃は、今でいうニート・フリーターの状態でした。
その後、小さな会社を三つばかり転々とした後、仙台市東部にある建築関係(20人程度)の会社に10年、そして後に独立して一人施工請負(塗装業)を22年。
丁度、その前後でしたか世の中全体的に仕事がなくなり、自然消滅の憂き目をみました。

毎日の晩酌が楽しみで生きている頃でした。
酒量が次第に増えたのもその辺りで、夕方6時にはドンと落ち着いて、酒四合にビール一本、その後風呂から上がってウイスキーのコーラ割を12時過ぎ、ダウ ンするまでの飲酒でした。外で飲む機会があれば「昔執った杵ずか」で、酒・ビール・ウイスキーをずらっと並べアッッチこっち順番にイタダクのが得意技で、 当然次の日は頭がガンガン午前中はフラフラ、母ちゃんの目を盗んでビールを一本、そして寝る。
目が覚める夕方5時には、だいたいすっきり、6時にはまた昨日と同じコース。
その時々に「朝から」の日曜日が入るのでアルコールの効き具合は絶大となる。

マズイなーと反省する訳です。
「何とかしないと」と、汗を出しながら猛省し又、「よし明日から禁酒」と、誓いを声に出し、また飲む。
その内「頭が爆発して倒れるぞ」、と思いつつ、「今日こそは」と思いつつも、どんなに頑張っても、ストップは二日。
左手で徳利を押さえ右手で一升瓶、あぁ今日も又かとトクトクの音。
二合目をすぎる頃は、頭も肝臓もシックリ落ち着いて「明日からやめましょ」と暫くの時間は堂々たるもの。
そして、それもつかの間、コレジャまずい、倒れたら終了です。ハイそれまでよ。
嫌悪感反省の繰り返し。何年続いたか・千日も続いたか!?。 
そして、今日からはと又思いつつも、5時になると駄目でした。
「よし明日から!」と念じつつ、左手に徳利、右手には一升瓶。
この頃になると「自分を嫌う」などという精神状態はとうに昔話。
毎日の後悔は、ほぼアキラメの心境。
そのときは〜^〜と思いつつも、「ここで潰れるのはナー」と、飲みながら深く考える時でした。
今思えば、これをグッと過ぎれば脳みそ爆発か・肝臓マヒか、何せアルコール専門病院なんて気の利いたものは知りませんでした。
54歳の6月でした。
ジワーと汗を出しながらの何時ものアホ酒、TVをボーと見ていたとき、「お酒で悩んでいる方いませんか?」「相談受けます」>>>>。

「何・ナニ、なにだ」すぐさま目の前の紙切れに番号を書き止めました。
よし、これだ・是だ。よーし!なんでも良いからこれで駄目なら「俺は駄目」と勝負しろ。

その時の電話相談では「あなたの酒は、もう、あなたが好きとか、そうでないとかの話ではなく、あなたの体が要求しているのです。明日にでも相談にきて下さい」との返事でした。そして、その時にグッと喉に通った酒が約500日続いた禁酒の前酒でした。
それが 宮城県断酒会との最初の出会いの日でした。

会員のそれぞれが、断酒例会所なるものに集まって、自分の酒の体験を言ってみる。
話しっぱなし・言いっぱなし・聞きっぱなし、その場かぎりの討論なしの断酒例会。
「酒の話で酒をやめる。」
アルコール関係の病院の先生やら行政の方の話による勉強会。
父ちゃんの酒が止まって、今は見違えた家庭の母ちゃんの断酒体験談。
苦しい酒浸りの生活からの開放。

断酒例会で、まわりの先輩方は、モットもっと深刻な方がたくさんいるように思われます。しかしながら、その様な大変な方も、病院の指導体制のある断酒例会で、断酒を続けているのは事実も事実、大事実なのです。
酒を止めて「再飲酒」することを「スリップ」するといいます。
私もそのスリップなる状態が時折あったのですが、現在は、週1回の断酒例会所通いで断酒を継続しています。

酒・禁酒・断酒・酒害・酒害体験などとある訳ですが、「酒害」という単語を理解するのには、仲々大変というか「死ぬ寸前」まで酒を飲んだ人でないと難しい 事かも知れません。チョット一杯・二杯の晩酌酒の方も、何かをキッカケに酒が増えていく場合、少しずつ酒の害に近づいているのではないかと、思うようにな りました、

私の「酒」の結論です。
「酒はイイもんだ。最高に調子も出るさ。」の方はそれで良しと思うのです。が、その量がどんどん増えていった時、その酒は決して一人頑張って止められるも のではないのです。脳みそと内臓は、当然自分の責任です。ですから、「やめたいんだけどナー」悩んだとき、ご家族の方の大酒、「何とかならないかナー」と 思っている方に申し上げたいのです。
酒は、アルコール専門病院でのカウンセリングと治療、そして断酒例会などの自助グループでの酒害体験談と勉強会。
今の私は「酒は何とかなる」と思っています。そして「何とかなりました」。
酒さえ止まればあとは、「長生きできた時間」をいかに使うかだけです。
{ 酒やめて 桜みられる 良き年に }
                                              平成十八年五月

体験集 その2

私の共依存 女性(家族)

「共依存する人は、やはり生い立ちの中から共依存する芽が育っているのだ。」と、言われた時はやはりショックでした。
医師からは、酒害者本人に貴女も飲ませまいと「酒を隠したり・捨てたり・監視する事で、益々飲ませ続ける事をしていたんですよ。」と、言われました。
また、こうも言われました。
先生は、優しく語りかけてくれるのですが、飲んでいる本人より貴女が、一生懸命家族の為、生活していく為にと働き続けたから一層、本人は安心して飲み続ける事ができ、結果として「益々お酒にはまり、病気が進行し重症化して行ったんですよ。」と。
そんなバカな事が有るか、「私だって苦しかったんだ! 辛かったんだ!」と、叫びたくなりました。

やはり、生い立ちの段階では、母親の姿と重なり合う部分が沢山有り、親の生き様がお手本なのです。

物心ついた時父は、女癖が悪く浮気をしており、母親の泣いている姿、一生懸命夫を頼りにせず、私達子供(三人)を仕事に繰り出させながらも我慢、頑張りで働きずくめでした。
やはり、生活して行かねばならず、夫の事など気にも止めない、振りをしていたように子供の目には映っていました。
そのような中で育ちましたから、私は仕事をする事が少しも嫌でありませんでした。

母の為に私は、「良い子供、良いお姉ちゃん」を沢山してきました。

母は食べる物もあまり食べていなかったのか、精神的に参っていたのか、突然苦しいと倒れ込み病院に行ったのですが、病院に着いてまもなく呆気なく四十二歳の若さで亡くなりました。

それからが大変な生活でした。
高校に行ったのですが、二年半アルバイトをしながら卒業し、ほっとする間もなく、淋しさ一杯であった主人と出会い、結婚しました。
母と同じように一生懸命、なり振りかまわず、家業の板金業を手伝い、暑い日・寒い日も屋根に上がり働きどうしでした。
そんな中、夫には酒を飲まれ続け、挙げ句には「立派な共依存です」と言われ、又「私が悪いから病気にした」とも言われ続け、二十数年沢山泣いた日々を思い出しました。

 私は、本当に苦しかった。不安だった。淋しかったです。

自分がこのような状態ですから、息子三人を「男の子なら高校さえ出したら何とかなるだろう」と、とても安易な考えでした。
私自身が精一杯だったんです。

その間に主人に病気(肝臓、食堂ガン)・車両事故等があり、心配のしどうしでした。
本人も「これではダメになる」と一大決心をしてくれ、本気で酒を止める事を考え、断酒会にも真面目に通い続け、例会所を任される迄になりました。

主人は、本人の成長を高めてくれたお陰で、今はとてもホッとしています。
今では、考えられなかった人達との出会いがあり、心穏やかに新たな世の中を見せて頂いております。
これからの私は、夫と協力しあい程良い距離を保ちながら、共依存をし続け、二人三脚で歩み続けていきたい。
この先何年一緒に生活していけるか分かりませんが、心和やかに過ごせればと思います。

いまの私の仕事である小規模多機能型施設長として、利用者及び利用者の為に働いている職員が、安心して働けるように身体の続く限り頑張りたいと思います。

これからは、子供達・孫達の成長を楽しみにし、世代連鎖に繋がらないよう、時々アドバイスしながら、一日一日心を込めて、大事に生活していきたいと思います。

体験集 その3

 私達親子は、埼玉県の団地に住んでいましたが、生活の窮地にみまわれて仙台に帰ることになりました。主人は移動盲腸に悩まされ、私はアルコール依存症に落ち込み、親子ともども仙台に着きました。そのとき、主人は42歳、私は38歳でした。
 主人の実家は、仙台でも便利な場所にあり、親戚が固まって住んでいました。私たちはそのうちの古い空き家にすむことになりました。主人は測量会社の製図 課長に迎えられ、又何より仙台は空気がきれいで食事がおいしいので、主人の体調も良く、今までとはうって変わって幸せでした。ただ、私たちは義母に家賃は 払っていたものの、毎月の小遣いをあげる余裕はありませんでした。朝から晩まで、紳士服の仕立てをして忙しく働いている義母と義姉の姿を見るにつけ、殊に 長男である主人は不甲斐ない思いをしていたように思います。
 そこで私は幸いデパートが近かったこともあり、思い切ってネクタイのマネキンをすることに決めました。品物がネクタイだけに、とても難しく大変でした。それでも色柄が豊富で選ぶ面白さが利夢中で働いたためか、とてもよく売れてくれました。
 そんな時、私の身体を流れているアルコール依存症の兆候は黙ってはいませんでした。仕事が終りほっとして家路に急ぐ途中、ふと気がつくとスナックの椅子 に座っていました。子供たちに早く食事を、と夕食のおかずをぶら下げながらいっぱいの酒のうまさにあっさり負けてしまったのです。定休日の前日は必ずと 言っていいくらい、都合のいい理由をつくっては飲むようになってしまいました。酔ってふらついて帰ってくる嫁の姿を見て、義母たちはどんなに暗い気持ちに なって、どんなに私に失望したかわかりません。私は自分のした行いを深く反省するのですが、仕事プラス主婦業のあまりの忙しさに耐えられなくなると、酒に 逃避しました。主人も仕事のつきあいが多く、飲んで帰ってくると私の日ごろの生活態度を注意し、次第にくどくどなるので口答えするとケンカになりました。 お互いに悲しい思いをしました。私はだんだん落ち着きを無くし、一人でいるときは「ああ死にたい、死んでしまいたい」とため息をつくことが多くなりまし た。

ここで、娘がその当時の私の姿と家庭の状況を体験記としてまとめた一文がありますのでご覧ください。
過去と現在(我が家の場合)
 もしも、あのときにウォークマンがあったらどんなにいいか、と思う。あの頃は小さなラジオを耳に当てて、布団をかぶってじっとしていた。お金をためて買 えばよかった。しかも隣の部屋はベニヤ板一枚で仕切られているだけ。「たけしくん、ハイ」みたいだ。ちがうことと言えば、たけしくんちは父ちゃんだけ酔っ ていたが、うちは両方だった。仲も悪かったし、頭もいいとは言えない。ちがうことだらけだ。
 中学一年の頃だった。父はいつも機嫌が悪く「早く起きろ。早く寝ろ」しか言わないし、母はデパート務めで帰りが遅く、あまり会話はなかった。時々、思い 出したように、酔ってスパゲティを買ってくる。父も別の所で酔って帰ってくると、ケンカが始まる。性格が違いすぎて聞いているほうが参ってしまう。その 上、明け方まで延々と続くのだ。二人とも素面の時はほっとするが、父は黙っていて、母がデパートのことを一方的に話していることが多かった。
 母が交通事故にあった日、一度、母は家に帰ってきた。夜七時頃だった。少し酔っていて、かってきたスパゲティを食べろと言った。なんかうれしそうに八時 ごろ出て行った。外から「お風呂止めて」と電話があったが、その前にボコボコと音がしていた。風呂場はくもの中みたいで見えなかった。真夜中、父が酔って 会社の人を連れて帰り、そのまま二人で眠ってしまった。
 翌朝、母はとうとう帰らなかった。車にはねられて病院にいた。意識不明の重態だ。
 私はそれでも学校に行ったように思う。入院中、つらかったのは、休みに家を出られないこと、成績の事で教師に余計なちょっかいを出されたこと、皆既月食 を見ないでしまったことだった。その非父はなかなか帰ってこなかった。外に出たかったが、父とあったら戸思うと面倒くさくなった。
 母の退院は六ヵ月後奇跡の復活だった。仕事への復帰も早かった。だが生活はあまり変わらないようだ。
 受験が迫ってきた。三社面談で、成績が不安定だからとワンランク下げるように言われた。その夜、父と母は泥酔して帰ってきて、私を起こした。そんなふうに、親は圧力をかけてくる。勉強なんて詰め込むだけだった。
 志望校に受かった。父も母もみな喜んでくれて、少しの間、平和な家になった。本当にしばらくぶりだった。しかし、長くは続かなかった。私は勉強にも友達 にも着いていけなくなり、学校が嫌いになっていった。すると家の中も元に戻っていく。母の帰りが遅くなった。それで毎日デパートに迎えに行く事にした。そ れでも母は、私をかわして飲みに行ってしまう。店の中で寝てしまうので、店の人から電話がかかってくる。迷惑そうなので、タクシーで迎えに行く。重いの で、引きずるようにタクシーに乗せて帰る。朝になると母はけろっとして仕事に行く。私は学校に行く。教師は成績で生徒を判断し、部活は強い者ほど優先する。家に帰る。迎えに行く。それを繰り返す事のなった。時々、学校を休んだ。担任から電話で呼び出され、なじられた。今でも電話が鳴ると逃げ出したくなる のはそのためだ。その後、最低の成績で卒業したと思ったら、その学校のある町内に越してくる羽目になり苦笑いする。
 実はここまで思い出すことは一苦労だった。母はT病院経由で青葉東部断酒会に入り三年目。父は家族班として夫婦で通うようになって、めっきり飲まなくなった。
 私はというと、二つほど学校を出たり入ったりし、東京で三年勤めて仙台に戻り、今はパートタイマーである。家に帰ると母は台所に立っている。

私が断酒会につながった当時、私たちの大先輩でもあります初代会長○○○○さん、宮城県断酒連合会長・青葉東部断酒会会長も勤められた△△さん等、すばら しい指導者にめぐり合ったこと、更に例会に出席していた家族会の各奥様方に優しく迎えていただいたことは、本当に自分を癒し断酒継続の力をもらったと思い 感謝の気持ちでいっぱいでした。
 今年で断酒17年目を迎えておりますが、一つ気がかりなことがあります。それはアメシスト例会の問題です。平成14年6月から毎月一回のペースで例会を 実施してきました。一番多い時は11名ほどの参加者がありました。しかしそれがなかなか長続きしなく、15年3月で例会は一旦休止せざるをえませんでし た。とても残念です。県内のアメシストが安心して話せる場所、互いに交流を深めることができる居場所を、早く作り上げなければと焦ります。
 現在私は、なが街例会所に所属しておりますが、例会所の仲間と共に今後も楽しく、明るく断酒の道を一歩一歩着実に歩んで行きたいと決心しています。


リハビリ・就労支援施設

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